(当時の漢字変換をそのまま再現しています。)
逓信文化・昭和45年4号寄稿文
岩下方夫記
日本・パリ万国博参加の内幕
日本が初めて万国博に参加したのは慶応三年(1867年)のパリ万博である。
そのパリ万博に私どもの先祖が薩摩藩使節として渡航している当時をしのぶ数枚の写真がある。それは岩下方平、岩下方美、方平の嫡子長十郎の三人。なかでも使節団長の肩書をもつ方平の写真は、チョンマゲ、チョッキ、ハイカラーにネクタイ、その上に紋付羽織、袴の裾から黒靴が見え、チョッキと袴の間に脇差、右手に太刀という逸品なスタイル。しかしいささかの不自然さもない。むしろ使節団長としての威厳があって、先祖の威風がしのばれるである。
慶応三年という年は徳川政権の滑落が一段と加速してゆく、それに追い打ちをかける薩摩藩との関係は邪悪の極点に達していた。従ってこの年パリ万博に参加した日本使節団の間では、国内のない分をそのまま持ち込み、「幕薩パリで戦う」という国際版ニュースを流してにぎわした。そのさい岩下方平はその一方の中心人物として動いたと伝えられている。
幕威の滑落した徳川幕閣が、慶応三年のパリ万博参加を決意するに至った理由として(一)「参加すべき時期に来ていた」というが、それは表向きで深意はフランスと親密な関係を強め軍事援助を受けたいこと。(二)滞仏中の柴田日向守からのパリ情報で、慶応一~二年に薩摩の新納刑部や五代友厚らがわが物顔にパリを横行し、薩摩が万博に参加するらしいこと。(三)国禁を犯して欧州に渡っている薩摩に対し、欧州での幕権を案じこのさいパリで幕威を発揚せねばならぬと決意したこと。という説が挙げられている。
幕府使節と薩摩藩使の確執
モンブラン伯の深謀
当時フランスは駐日公使を通じて幕府とは、イギリスを出し抜いて密着していた。しかしフランス国内には、それに反旗を翻すものがいた。それはモンブランというフランス貴族である。「幕末外交談」(幕臣田辺太一著)には次のように記されている。
『パリにモンブラン伯爵といえる貴族あり。この人功名心の深き性にて、仕切りに日本に関係して栄誉を博さんと思い、柴田(在仏理事官)に交を通じてややその意を洩らしたるに、その評判のあまり上等社会によろしからざる所より、かかる人には関係することを止められよ、と忠告をうけたりければ、柴田も悟る所ありしか、敬して遠ざくるようの交際を為したり。モンブランはこれに不満を抱き、然らんには我も又偽すべき所ありとて、他方に眼を注ぎ始めたり。時に薩州より某々(新納と五代ら)といえる藩士数名仏国に来たれり』とあって両社の歩み寄り提携となり、五代はモンブランを薩摩藩使節の顧問にするよう藩主に働きかけることを約し、モンブランは合弁会社の設立、機械、武器弾薬、軍艦等の購入斡旋を約した。そしてこの本調印は岩下が渡欧して行うことになったのである。
ところでパリ万博使節団の顔ぶれは、幕府側は徳川昭武(慶喜の弟)を将軍の名代とし、向山隼人正(公使)、田辺太一(書記官)、渋沢栄一、その外昭武の家臣七名。薩摩藩側は岩下方平(使節謙博覧会御用家老)、市来政清(側役格)その外七名で、幕府使節は慶応三年一月十二日横浜出発、三月七日パリ着、薩摩はそれより二ヶ月早い慶應二年十一月十日鹿児島出発、翌年一月二日パリ着。スエズ運河は当時未完成だったので、その地帯は汽車でアレキサンドリアに出たとある。この汽車旅の印象を、前年渡欧した薩摩の市来勘十郎(のち海軍中将)は日記にこう書いている。「蒸気車は頭に機関車これあり、長さ三間横一間藩ばかりもあるべし。これが蒸気器械の車なり。これが衆車を引く、人の乗車は長短機関車に同じ、一車に十六人或いは二十四人ばかりも乗るべし。この車四五十或いは百結びつき走る。蒸気車の道の車の当たる処は大きい鉄筋を土地に敷きその上を走る。その早きこと疾風の如し。スエズ蒸気車は一時間に十七里走ると聞く、」
薩摩使節はパリに着くと万博のことは一切モンブランに任せた。それから幕府使節が二ヶ月遅れて到着すると、「琉球王国パリ万博委員長」の肩書を持ったモンブランが幕府使節を訪れた。向山公使はその肩書を詰門したがモンブランも負けてはいなかった。その二日後に日本関係の出品打合会があって、仏外務省係官、田辺太一、岩下方平、モンブラン等が出席した。この打合会での論戦が「幕末外交談」に詳しく出ているが、現代文で分かり易い「鹿児島百年」(南日本新聞社刊)の記述を引用する。
『岩下は田辺に近寄ると「民部大輔殿が到着されたことを風の便りで聞きもした。ご機嫌伺いに参らねばと思いつつも、不案内の土地で宿も分らず失礼しもしたといった。」』わが物顔で不穏な行動を伝えられた薩藩士としては、頗るていねいな態度に田辺は毒気を抜かれた恰好だったが、腹にすえかねていたので「修理大夫(薩藩主)殿が琉球国王と称されたのはいかなる理由でござるか、尊王随一といわれる貴藩が日の丸の国旗をないがしろにして、丸に十の字を国旗に用いておられる。日本に叛しての独立でござるか」と憤然として岩下に詰めよった。堂々の正論だ。岩下は困った。田辺は追求する。「最初幕府から一括して出品することを天下に告げた筈、そのあたりの所はどうお考えでござるか」これとて岩下にとっては抗弁出来ない。田辺のいう通りであって筋道は立っている。やむなく岩下は「江戸表のことは遠くはなれていてしかと分かり申さぬ。また博覧会の出品については、万事モンブラン殿に一任してござるのでモンブラン殿から聞いて下され」と逃げるしかなかった。田辺はモンブランとも渉より合った。琉球国王名で出品し、丸に十の字の国旗を掲げたいモンブランに、それを引込めさせようと田辺は説得をくり返した。岩下もこれには加勢し、やっと説き伏ぜた。田辺は更に薩藩の出品名を松平修理大夫にしてほしいといい出した。これには岩下は断固はねつけた。薩摩の政府が出品するのだから日本薩摩政府でなければ承服せぬ、と主張した。結局田辺が折れた。打合会のあと、レセプションとなり田辺は夜八時頃帰館した。
日本の出品は幕府も薩摩も日本と大書し、日の丸を掲げて出品すると決まった。ただしその下に幕府は「関東大守グーヴェルマン」薩摩は「薩摩太守グーヴェルマン」となった。太守(タイシュ)は国王の意味、グーヴェルマンは政府の意味。この結果「関東太守」「薩摩太守」「佐賀太守」の並列が万博に集まる欧州人にどのように映ったであろうか。
パリの新聞はそれを見逃さなかった。「かねて日本は連邦組織と聞いていたが、大君(タイクン・徳川将軍)の政府はその中でやや広く、やや力があるに過ぎないことが分った。昨夜レセップスの会で関東太守のタナベなる男は、シャンペンを飲み過ぎて化けの皮を現した」と書き立てた。明らかに親薩反幕の記事で、モンブランの画策である。田辺はフィガロとルタムの両紙で幕府が軽視され、自分が罵倒された記事に「事実と相違するも甚だしい」と憤慨し、訂正を要求したが黙殺された』
薩摩琉球国勲章を大官に贈る
モンブランの政治手腕はさらに薩摩琉球国勲章を作ったことで、幕府施設側に痛烈な決定打を放った。「チョンマゲ大使海を行く」(高橋邦太郎著)は次のようにそれを書いている。
『モンブランは仏人が勲章を重んじ、これを愛好する心理を利用して、レジオン・ドヌール勲章に範を採った「薩摩琉球国勲章」を作製させて、薩摩使節からナポレオン皇帝をはじめ要路の大官に贈った。この勲章は赤い五稜星の中央に、丸に十の字の島津家の紋章を白く浮かし、御陵の間に金文字で薩摩琉球国の五字をはさみ、赤字に細い白条を両端に一本ずつ入れた綬をリボンで結んだ形でつないだ、まことに面白いもの。なお裏側に「贈文官兼武官」と記してあるのも、レジオン・ドヌール勲章が文武いづれにも贈られるのにならった。そもそも勲章を制定し功労あるものに贈るのは、国家であって初めて出来るということは常識である。すなわち、これで薩摩が日本連邦の中で立派な独立国であることを立証したわけで、向山公使(幕臣)がこの勲章のために、薩摩株がみるみるあがったのをみて、これではとても太刀打ち出来ないと、あわてて江戸に「幕府も勲章を作らねばならぬ、早速お手配願いたい」と書き送った。しかし幕府の政局はそれどころではなく、ついに明治九年まで日本には勲章というものは作られなかった』とある。
このように薩藩の宣伝部長としてのモンブランの手腕は実に鮮やかだった。この実績がのちに明治政府をして、モンブランを一時、代理公使に任命したのであるが、それはさておき、岩下が本来の渡欧の使命である合弁会社(ベルギー商社)設立等の本調印について、モンブランと接渉を始めると、先年来ロンドンに留学中の薩藩の森有礼ら数名が、モンブランという人物は極めて評判が悪く信用が置けない。として岩下に調印を思いとどまるよう強く申出てきた。だが岩下は「このさいいかんともなし難きを論して、これに応ぜず」と薩藩海軍史は記している。そこで留学生たちは国許の大久保利通と伊集院在中にあてて、藩庁の反省を求める意見書を送った。それには英国下院議員オリハントからの、薩英親善の上からも好ましくないとの意見書も同封された。これらの意見書の功があったのか、それともモンブラン自信が挫折したのか、出資や発注がうまく運ばず、ついに合弁会社の締結は流れてしまったという。
幕臣の田辺太一はこれについて次のように述べている。「かの琉球王国の大使は博覧会の未だ終わらないうちに、その行方を知る者さえなくなった。当時の風説によれば、負債がようやくかさみ、その上注文した武器等が次第に出来上るにおよび、その代価の支払にも困るようになったので、行方をくらましたものであるという」と、事実岩下はモンブランと組んでの画策による派手な支出で、巨額な借金を作り、その金策もあり、欧州各地の視察もロンドンだけに止めて、忽々に帰国した。しかし幕府使節も似たようなものであった。幕府使節の会計を受持った渋沢栄一は、フランス人から信託投資で資金を増やすことを初めて知ったものの、資金窮乏に苦しんだ。しかも刻々伝わってくる日本の政情危機にはフランス側も危惧を抱き、幕府使節のもひとつの重要任務たる「北海道を担保とする六百万ドルの借入計画」もこのため成立せず。そうこうするうちに幕府は鳥羽伏見の戦いであえなく互解した。その報がパリにとどいたのは、徳川昭武がナポレオン三世に一八六八年の賀詞を述べていた頃であるという。
その頃岩下はどうしていたか、については「薩藩海軍史」の記録では「慶応三年九月二十二日長崎着、同年十一月十三日藩主島津忠美に随従、三千の兵を率いて京都に急行、同年十二月九日の京都小御所会議に参画し、新政府を成立するにいたった」とある。また幕府使節の徳川昭武は「万博終了後そのままパリ留学したが、明治新政府に切り替わると帰国を命ぜられ、帰国すると直ちに函館に籠城している榎本武揚追討を命ぜられた」とある。想うに、徳川昭武ほど運命の皮肉を歎じたひとではないのではなかろうか。