岩下方平は文政10(1827)年に、鹿児島城下、上加治屋町に生まれました。安政の大獄後に西郷隆盛や大久保利通らが中心となって結成した精(誠)忠組においては、その首領に推され、主導的な役割を担いました。
文久2(1862)年には、島津久光の率兵上京に続いて士卒300余名を率いて上京しています。薩英戦争後の講和会議にあたっては、談判正使として横浜に赴き、英国代理公使ニールと交渉を行いました。慶応元(1865)年には家老に進み、翌2年の長州再征にあたっては、幕府の出兵命令に対して、これを拒否しています。
慶応3(1867)年のパリ万国博覧会の開催にあたって、薩摩藩は幕府とは別に「薩摩琉球国太守政府」の名義で参加し、方平も薩摩藩の使節団を率いてフランスに渡航しました。
パリ万博から帰国後、方平は直ちに藩主島津忠義に従い上京し、王政復古にあたっては、薩摩藩を代表し西郷、大久保と共に徴士・参与に任ぜられました。明治2(1869)年、維新の功により永世賞典禄千石を下賜されました。その後、京都府権知事、大阪府大参事経て元老院議官に就任。明治20(1887)年に子爵を賜わり、後に貴族院議員となります。明治33(1900)年、74歳の生涯を閉じました。
大政奉還150周年記念プロジェクトサイトより転載。